巨済島捕虜収容所遺跡公園
HISTORIC PARK OF GEOJE POW CAMP

 ここへ行くには、古懸の港が近い。Yajio達は歩いて行ったが、もしこれから行く人は迷わずタクシーで行ってくれ。実はYajio達も、最初はそうするつもりだったのだ。
 
 しかし古懸の港で客待ちしているタクシードライバーに、地図を見せ巨済島捕虜収容所遺跡公園と言うと、ドライバーは向こうの方だと指差すのでYajioは歩いて行けるものだと思ってしまったのだ。

 実際に、ギリギリ歩けない距離では無いのだが、20~30分かかる。それと目的地までの道程は緩やかな坂道が延々と続くのだ。もちろん何にも無い田舎道なので、多分、夏場は日射病でぶっ倒れると思う。
 もし体力に自信があり、目的地まで歩いていけたとしても、更に1時間以上は歩いて見学しなければならないのだ、意地張らずに絶対にタクシーを利用してくれ。

 何故、行きのタクシードライバーは乗れと言ってくれ無かったのか?帰りにタクシーに乗って分かった。歩けば20~30分の距離だがタクシーではワンメーター僅か4~5で着く場所なのだ。 
 行きに古懸の港で客待ちしているタクシーは、何もワンメーターの客を態々待っていたのじゃないのだ。港に着いて、更に島の奥の実家にでも帰る客を待っていたのだ。
 しかし、巨済島捕虜収容所遺跡公園まで行ってくれと言って、強引にタクシーに乗り込めば乗車拒否されないかもしれなが、街を流しているタクシーもいるので、こちらは方が問題ないだろう。
 


巨済島捕虜収容所遺跡公園は、丘の斜面を利用し全体が公園になっている。
入口ゲートは三箇所ある。港から歩いて来た場合1番右のゲートから入場する。
結構パーキングが広く、地元の人が多いようだ。ここへのアプローチ専らマイカーのようだ。


チケットを買い階段を昇ると、戦車の後部が入口となる。
随分と凝ったアプローチであるが、中にはエスカレーターがあるだけ。



中に入ると、当時の各国の戦争責任者が出迎えてくれる。
だが、何故T-34なんだ?T-34は確かに第二次世界大戦、朝鮮戦争で大活躍した、ソ連の戦車だ。
しかし、ここの施設は国連軍の施設のはずだ。当時の国連軍にも、
M4シャーマン、M26パーシング、センチュリオンMK.III等、アメリカやイギリスにも
優秀な戦車は沢山有ったはずだ、なのにどうしてT-34なんだ。


まずはジオラマ館
収容所のジオラマが展示されている。かなり精巧な造りのジオラマだ。



再び表に出ると戦闘シーンのジオラマ
これは野外の展示物だが、しっかりとメンテナンスされている。

『HISTORY OF THE KOREAN WAR』
6.25歴史館
1950年6月25日朝鮮戦争は勃発した。

1950年6月25日午前4時、朝鮮戦争は勃発した。

 朝鮮半島は、第二次世界大戦後、自らの独立を勝ち取る事が出来ず、アメリカを中心とする資本主義陣営とソ連を中心とする共産主義陣営が、半島を南北に二分する戦争の舞台となった。

首都ソウル陥落

 北朝鮮軍は、ソ連からの十分な支援の下、軍備が整わない韓国軍に奇襲をかけ、開戦直後、アッと言う間に韓国の首都ソウルを占領した。アメリカの支援が遅れた韓国軍は、首都ソウルを放棄し首都を水原に遷都する。ソウルは開戦後わずか3日で陥落してしまった。
 その後、参戦したアメリカを中心とした国連軍だが、軍備が整わず敗退の一方で、とうとう国連軍は釜山まで、攻め込まれてしまう。

仁川上陸作戦

 状況を立て直すために、当時の司令官マッカーサーが北朝鮮の背後を絶つ為の、仁川上陸作戦を決行した。連合軍のこの作戦は見事に成功し、南下していた北朝鮮軍は補給を絶たれ総崩れとなり敗走し、多くは捕虜なったが、一部はゲリラ化し徹底抗戦した。
 この作戦で連合軍はソウルを奪還し北朝鮮軍を、開戦時の38度線まで押し返した。元々この戦争は北朝鮮から、仕掛けられた戦争なのでこの時点で元に戻った訳だが、韓国軍もマッカーサーも欲が出て来た。そう、今度は自分達が南北を統一しようと考えたのだ。

中国の参戦

 しかし、今度は中国が表立って出て来た。もし、38度線を超えるなら我々も本格参戦すると。だが、勢いに乗った、マッカーサーと韓国軍は誰も止める事は出来なかった。更に北上を進め遂には、北朝鮮の首都ピョンヤンまでも攻め入ってしまった。
 中国は予告通り、正式に朝鮮戦争に参戦し大部隊を投入した。これにはマッカーサーも撤退を余儀なくされるが、何と、彼はここで原爆の投入を本国(アメリカ)に提案する。
 もちろん、時の大統領トールマンはこれを却下し、退却を命じる。その後、中国の支援を受けた北朝鮮軍に再度38度線を突破され、ソウル再び陥落されてしまう。

停戦に向けて

 アメリカはこの時点(37度線)で停戦を申し入れるが、今度は勢いに乗った中国がこれを拒否する。その後は一進一退の局面が続き、幾度も停戦交渉も行われたが、お互いの(アメリカ、当時のソ連の主張する停戦ライン)利害が一致するまで、交渉は難航する。

捕虜問題

 停戦に向けて問題ななったのは、お互いの捕虜で接点を見つける事が出来ない点だった。国連軍は捕虜の帰還は自由意志で、本人が北か南を選べると主張していた。
 北朝鮮は占領した都市の青年を捕虜とし、強制的に自軍の兵士として編入していたので、北に帰還する者は圧倒的に少ないのである。

 ここ巨済島の捕虜収容所に居た捕虜は、北に帰還を希望する兵士達だった。そんな中ここ巨済島の捕虜収容所で暴動が起き、またも休戦交渉は暗礁に乗り上げた。

指導者の交代と停戦

 その後、アメリカは、総司令官マッカーサーが解任され、大統領はアイゼンハワーに変わり、ソ連は、スターリンが死去し、両国の指導者が交代して状況が変化し、一気に休戦に向けての妥協点を求め始めた。

 今度は、韓国がこれに反対して、釜山にいた捕虜
(元々南に残りたかった北の兵士)を自軍に編入していまい、停戦交渉を妨害したのだ。これに、北朝鮮は激怒したがアイゼンハワーが釈明に努力し、何とか休戦に持っていく事が出来た。

 尚、この休戦協定は北朝鮮、中国、国連軍(アメリカ)の三者で調印し、韓国はこれを拒否し調印に参加していない。
 しかし3年間、続いた朝鮮戦争は一時休戦の終結をし、南北は現在も停戦中だ。これはあくまでも停戦であって、戦争は終結していない。現在も戦争状態なのだ。


再び外に出ると橋を渡り今度は『捕虜生活館』
『捕虜捕獲館』って何の為に
捕虜輸送  
捕虜思想対立館 女性捕虜館  
捕虜暴動体験館
中に入るといきなり人形が動き出す。
捕虜説得館    
屋外のキャンプは映画『黒水仙』の撮影用に新しく造った、オープンセット。
残骸は当時の施設の跡、当時使用した兵器が展示してある。